2018年 慶應大学文学部


  • 銃で脅されて、お金を出すのは、アリストテレスの定義によれば、自発的な行為である。 
  • アリストテレスは、本当にそんな風に考えていたのかと問わねばならない。 
  • アリストテレスは脅されて行った行為は自発的な行為だと考えていたのだろうか。 
  • アリストテレスは行為の起源が行為者にある行為は自発的だと述べている。 
  • しかし、他方で、「自発的」や「非自発的」といった用語は、その行為が成された状況に関連して用いられなければならないとも述べている。 
  • 重要なことは、アリストテレスが、同じ行為であっても、状況や視点によって、自発的とも、非自発的とも言える両義性に着目していたことである。 
  • しかし、アレントはそれを単純化してしまう。 
  • ここにあるのは、人が何事かをなすとはどういうことか、人が何事かをさせられるとはどういうことかという原理的な問題である。 
    • ここでは、「する」と「させる」の境界線が問われているのであり、この問題は、中動態と無縁ではない。 
  • フーコーの権力論を紹介する。 
    • かつて権力は、「国家の暴力装置」と同一視されていた。 
    • それに対して、フーコーは、権力は抑えつけるのではなく、「行使させる」と考えた。 
      • 権力はいくらか能動性を残すものである。 
      • 暴力は受動性の極みしかない。 
    • 権力は、人々が行為するのを妨げるのではない。 
      • 権力は相手の行為する力を利用する。 
      • 暴力は、行為する力そのものを抑え込む。 
      • 権力を行使される者は、ある意味で能動的である。 
      • 権力行使における能動性は、暴力行使における能動性と同じものだろうか。 
      • 両者は異なる。 
      • なぜならば、武器で脅されて便所掃除をしている者は、能動性と受動性を有しているためだ。 
        • 従って、権力行使における行為者の有様を「する」と「される」の対立で説明することはできない。 
  • フーコーの権力論は、「能動性」と「受動性」の対立を疑わせるものである。 
  • 権力の関係は、能動性と受動性の対立によってではなく、能動性と中動性の対立によって定義するのが正しい。 
  • 暴力と権力を区別する際に、能動性と中動性の対立で理解すべきだ。 
  • フーコーが権力概念の刷新のために相当苦労しなければならなかったのも、能動性と中動性の対立という概念が無かったからだ。 
  • 全てが能動性と受動性で理解されてしまう、そのような言語=思想的条件があったため、フーコーは苦労したのだ。 
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